沼垂の歴史

地名の起源

「沼垂」という地名は古く、『日本書紀』の記述によると次のような記事を載せています。

 

  • 大化三年 渟足柵(ぬたりのき)を造り、柵戸(さくこ)を置く。

 

647(大化3)の渟足柵設置記事は、北陸・東北地方に設置された「柵」と呼ばれる施設が史料に現れる初めての例です。

『日本書紀』には「渟足柵」の記述が二箇所に確認できますが、その実態は明らかではありません。

また、十世紀に編纂された『和名類聚抄』には越後国の行政区名として沼垂郡沼垂郷が挙げられ、「奴多利」「奴太利」などの読みが付されています。

これは「沼垂」が「ヌタリ」と読むことを示し、「渟足」に通ずるものと考えられてきました。

現在も地名として残る「沼垂」というルーツは「渟足柵」にあり、渟足柵は新潟市沼垂地区周辺にあったであろうという漠然とした推測が成り立っています。

しかし、現在でもその所在は明らかになっておらず、地名や神社名などの研究から様々な候補地が挙げられているに過ぎません。

 

1990(平成2)1214日の新潟日報夕刊では、一面で和島村(現長岡市)八幡林遺跡出土の二つの木簡について報じました。

紙面には二号木簡の「祝沼垂城」の文字が鮮やかな写真で紹介され、「『新潟市に渟足柵』裏付け」「沼垂城と改称し存続」などの大きな文字が躍りました。

 

二号木簡は裏面に「廿八日解所請養老」とあり、養老年間(717724)頃に書かれたものと考えられています。

つまり、「沼垂城」という施設がこの時期に存在したことを示す証拠となるのです。

以上のことから、「渟足柵」が置かれたのち、約70年後には「沼垂城」へと名前を変えていたことが判明しました。

沼垂の移転

沼垂町は阿賀野川と信濃川の二つの大河の川欠け(大水、洪水)で町が流されてしまい、1633(寛永10)から51年間にわたり、発祥の地である山の下王瀬より4回の町移転を余儀なくされました。

短期間のうちに移転を繰り返し、1684(貞享元年)、ようやく現在地に定住することができました。

  1. 1633(寛永10) 王瀬→海寄りの土地(地名不明)
  2. 1654(承応3)  山の下王瀬→大島
  3. 1663(寛文3)~ 大島→蒲原上手
  4. 1684(貞享元年)~ 蒲原上手→栗ノ木川東岸

沼垂町は、寛永年間から貞享元年(1684)までの約50年の間に何度も移転をしました。

最初、沼垂は王瀬にあったとされています(一度目沼垂)

しかし、阿賀野川が信濃川に合流し、洪水で町が浸食されたため、寛永17(1640)に王瀬北部の海寄りに移転します(二度目沼垂)

承応3(1654)、阿賀野川の河口が土砂で埋まり湊が遠くなったため大島へ移転(三度目沼垂)、さらに11年後の寛文5(1665)、川幅が変化し町が浸食されたため蒲原村の南側に移ります(四度目沼垂)

しかしここも水没し、貞享元年(1684)、長嶺新田の栗ノ木川沿いの土地へ移転を開始します(五度目沼垂)

これが現在の沼垂の場所です。